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言葉について
2025/01/01 現在
せっかくブログページを作ったんですから、早速使ってみることにしましょう。
これを書いている日はちょうど元旦です。2025年が始まりました。私は全く時の流れについていけておらず、月日が経つ速さに慄くばかりです。
TwitterやMisskey以外に、noteのような記事投稿サイトも日記の代わりに使っているので、ここには普段あまり書かない(書く機会がない)ことをつらつら書いていけたらいいですね。
この世にはブログサービスがいくらでも、星の数ほどありますけど、ホームページという憧れにはいつまでも抗えません。
本題に入りましょうか。
このサイトの開設準備をしていた時、ひとつのテーマについて考えたことを書く場所にしたらどうだろうか?と思い立ったのでそうします。テーマも完全に思い付きですけど、今回は私にとっての『言葉』に注目してみます。
私にとっての言葉は「広すぎるレッドオーシャン」です。私の目から見える、私の頭で考えられる日本語の世界には、既に先人が発明して、何度も擦られてきたような表現しか広がっていません。
例えば……「血のように赤い薔薇」とか、「きらきら瞬く宝石のような涙」とか。どうにかこうにか言葉を出そうと頭をひねってみても、結局どこかで聞いたような、便利な言い回しに帰結していきます。別にそんなの気にしなければいいじゃないか!と諦めればそれまでですが、自由なはずの表現の世界に制約が掛けられているのが、私は窮屈に思えてならない。
言葉を知らなければ思考すらできないんだと、どこかで誰かが言っていたような気がします。人が考えられることには限界があって、それは身の回りのメディア(執筆における言葉)に規定されていく。これもまた借り物の言葉です。でも、文字を書いていると、びっくりするほど言葉と思考が連動していることを実感する。
どこかに、今の自分が言い表せないものが、概念があるのかもしれない。だけど、私の思考世界を数歩歩くと「言葉の限界」がある。概念を考えるための言葉…私と概念を媒介してくれるメディアが消えてしまえば、そのまま「思考の限界」に達する。
言葉のことをレッドオーシャンだと言ったのは、どれだけ遠くを見ても「何か」を言い表している先人が居て、私がこうやって必死に考えていることなど擦り切れるほど考察されていて、言葉を紡ぐという行動が枯れた金山を掘ることと同義に感じるからです。
分からないと言って嘆くだけの私よりもずっとうまく、私の言いたいことを具現してくれる人が居るはずだ、と思ってしまうからです。
きっと、目の前のデカすぎる海を泳ぎ続けた先には青い海がある。きっと、誰も至っていないどこかを目指して言葉を重ねる人がこの世に沢山いる。なんとなくわかります。色々なことに手を出していると、どこにでも「先人」と呼べる人が居て、けれどどこかにフロンティアが存在していて。金山を掘り進める人が生まれる度に、「その手があったか!」と膝を叩いているので。
本当はまだまだいける!と頭では分かっている。けど、特別な感性とか、血のにじむような努力とか、そんなものが無いと一握りの天才になれないんだろうな、とも考えてしまいます。
こうして「文章なんて全然書けねぇよ!」という文章をグニャグニャと書いていると、もっといろいろな言葉に触れたいし、もっと言葉を知りたい、書きたいと思えてきます。矛盾していると思われるかもしれません。
今の私から見える言葉の世界は広すぎだし、窮屈だし、不自由です。
不自由だから、身の丈も考えず「自由になりたい!」って思ってしまいます。 先人が泳ぎきったレッドオーシャンを辿って、共感できる人も共感できない人も見つけて、そんな過程の末に青い海にたどり着けたら、その頃には言葉に向き合うのが楽しくてしょうがなくなっているかもしれません。
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