鈴森と父親

 実家に帰るのは数ヶ月ぶりだった。

 ほどよく冷めた秋風に吹かれながら、合鍵を使って玄関を開けた。少し重い扉の向こう側では、馴染みのあるにおいがした。
 リビングのテレビが付いてるのだろうか、くぐもった明るい話し声が廊下に漏れている。
 「帰ったよ」
 入口から声を張ってみると、少しして足音が聞こえた。
 父は軽快に廊下から出てくると、俺を見るなり顔を綻ばせた。
 「よ、おかえり。なんか久しぶりだな」
 「暇なくて帰れなかったんだよ、ごめん」
 「いいんだよ、年一でも十分だろ」
 靴を脱いで床に上がる。話しながら、リビングに戻っていく父を追いかけた。
 就職後も、実家には戻るようにしていた。両親の加齢や不調にもすぐに気が付けるし、なにより家族と過ごすと落ち着くのだ。
 リビングに入る。父が読んでいたのだろう、ドライブ誌が机に広げられている。
 「母さんは居ないの? 日曜なのに」
 「取引のアポが今日しかとれなかったんだと」
 「うわ、全然現役だな」
 俺が言うと、父は笑いながら肩をすくめてみせた。それからリビングのソファへゆっくりと腰かけて、「座れよ」と手招きをしてくれた。
 もっとも身近な人は父だった。
 母親は帰れない日が多かった。なので、ご飯を作ったり休日に遊んだりするのはもっぱら父だった。「人のためになりなさい」というのも、確か父の言いつけだった。
 …弁解ではないが、母とも仲良くやっている。構ってやれなかったことを気にしていると父から聞いた。「気にしてないよ」と伝えることは今日も叶わなさそうだが。
 父に従ってソファに座る。目の前には付いたままのテレビがあって、バラエティ番組のエンドロールを流していた。ようやく一息ついた俺を、父は穏やかな顔で見つめていた。
「……最近は忙しいんだな」
「え? あー、天気がちょうどいいから、施設のイベントがどんどん企画立ち上がってて…。デイサービスとか休み返上だよ。いいけどさ」
 窓の外に目をやる。庭に植えられた紅葉の葉が落ちていく。
 エンドロールが終わると定時ニュースが始まった。父はテレビの電源を切った。
「その企画、上手くいってるのか?」
「まあ、多分。じーちゃんたちは若者の頑張りに乗ってやろう~とか思ってそうだけど」
「それならきっと大丈夫だ」
 ぽんと背中を叩かれる。
「乗ってやろう、言うとおりにしてやろうって思ってもらえてるんだろ? それなら、みんな楽しいさ」
「……そうならいいな」
うれしくて、自然とはにかんだ。
背もたれに沈むと、息が深くなった。施設の人たちの顔が、ぽつぽつと思い浮かんだ。
何かあれば一番に声を掛けてくれる吉田さんに、俺がいる日だけデイサービスに来る柊さん。気難しかったけど、一度持病で肺を痛めてからは教える通りに薬を飲んでくれるようになった澤屋さん。自分は信頼してもらえているのだろう。きっと。
「きっと、上手くやれてるんじゃねえかなぁ」
「自慢の息子だな」
「へへ」
 人を助けるたび、誰かのために頑張るたび、父は褒めてくれたっけ。
 俺と父は似たもの同士だったから、父が俺を止めようとしたことはほとんどなかった。今の仕事が決まった時も、父は手放しに祝福してくれた。
「父さん」
「ん?」
 後ろから、ニュースキャスターの声がした。
 目の前のテレビは消えている。けれど、頭の中でふわふわと何重にも重なって響いている。ニュースキャスターたちは、繰り返し原稿を読み上げている。またこれか、と思った。昔相談したら、父は俺からニュースを遠ざけるようになったっけ。
「これは、仕事の話なんだけど」
 口を開いた途端、キャスターの声は遠のいていった。
 施設の人たちと一緒に思い浮かんだ顔があった。父にも母にも話せていない相沼のことだった。父は、彼と関わることだけは良しとしてくれなかった。
「俺を、信じてくれない人がいてさ。今のままじゃダメなんだ、けど何を言っても伝わる気はしねぇし…」
 いい顔をされないことはわかっている。自分がおかしいことも知っている。嘘をついてても話したいと思ってしまうのは、自分が随分父親っ子だからなのかもしれない。
「…もし、その人を助けられるのが自分だけだとしたら、どうしよう」
「本当に翔だけか?」
「そうだよ」
「あまり賛成できないな」
 ……そりゃそうだろうな。
 父は短く息を吐いた。何かを察したらしかった。
 俺は父から目を逸らすと、余計な追求をされる前にテレビの電源を付けた。チャンネルを変えた。再放送のミステリードラマが映った。
 ふう、と深呼吸をする。
「あー、お茶入れてくる。最近冷えてきたし」
「……」
「緑茶でいい?」
「……ああ」
 父は訝しげに俺を見ていた。気持ちはわからなくもなかった。親心からすれば当然だ。
「まあ、頑張ってみるよ。仕事だし」
「……帰ってこれる程度には休めよ」
「年一でもいいって言ってたろ」
「寂しいだろ。毎週来い」
にやり、と父が笑った。ちょうどソファーから立ち上がった俺は、わざとらしく肩をすくめてみせた。