小野と相沼

 施設からあの大通りまで、少し距離があった。地下鉄で3駅、そこから10分ほど歩かなければいけない。車内で揺られていると、おもむろに小野が口を開いた。
「意外でした。どうして行こうと思ったんですか?」
 不思議そうな顔で尋ねられる。どう答えたものかと、悩んだ口からは、呻き声しか出てこない。
「言いにくいんです?」
「笑いませんか」
「もちろんですよ」
 蚊の鳴くような声の問いを小野は間髪入れずに返す。それから、しばらく電車の走る音だけが聞こえた。
「会える気がしたんです。あいつに」
「あいつって、」
 小野は何かを察したように言葉を止める。
「けど、前にお参りしたでしょう?」
「あんな小さな石にあいつが居るなんて、やっぱ思えなくて」
 腑に落ちていなさそうな小野の表情から目を逸らした。それもそうだ。死んだ人間には会えない。今から自分が向かう場所で、自分で彼を殺したのだから。
「おれがすっかり忘れる前に…うん、えっと……もう一度考えたいのかもしれません。おれはあいつの前で、あの時何を考えてたのか。一生覚えて居られるように」
 相沼は少しうつむいた。膝の上に置かれている自分の手が見えた。
 脳は、いらない記憶を捨てていく。必要な記憶すらも勝手にトリミングして捨てていく。それが怖くてたまらなかった。
 駒鳥で過ごしていた頃の記憶も、悪夢も、激情も、日を追うごとに薄れている気がしていた。そのままではいけない。怖くない訳ではないけれど。
 少しの間、会話が止まる。がたん、がたん、と電車の揺れが体を揺らした。
「傷つきに行くんですか?」
 伏し目がちに小野が言った。驚いて、おれはこの日初めて微笑んだ。
「……あの子は、おれを傷付けるわけないです」
 
 ようやく辿り着いた駒鳥は、住んでいた頃と比べ大きく様変わりしていた。面影は残っているが、暗く小汚かったはずの裏道には割れ窓すら見当たらない。世界の底のような、以前の怪しさは漂っていなかった。
「あの事件から、区が…というか、警察が本格的に治安改善措置を取ったんです。この通りは反社勢力の溜まり場でしたから、特に苦労したみたいですけど」
 小野がそう告げる。自分が施設に入れられた後のことはよく知らない。余程の大騒ぎになったのだろう。
「それまでずっと放っといてたのに。こんなこともあるんですね」
 呟く。先へ進む。雰囲気は違えど、道自体はさほど変わっていなかったのが幸いだった。記憶を辿るように細い道を歩いていく。
 右、右、左、まっすぐ。どの道も年季こそ入っているが、記憶よりずっと綺麗なものだった。最後にもう一度左に曲がると、少し開けた空間に出た。
 ここも全て掃除されてしまったのだろう。ダンボールも拾い物も見当たらない。からっぽな空間の端に、青い花が数本生けられていた。
「ここですか?」
「そのはずです、けど……。花?」
 その花に近づいてみる。
 花瓶の下のアスファルトに他と色が違う場所があることに気がついた。うっすらとシミが広がっていた。
「……。」
 その場にしゃがみこんでシミを見つめる。この大きさと目線の角度には覚えがあった。
「どうしました?」
 小野が自分の様子を見るなり声を掛ける。その声は届いていなかった。
 コンクリートの灰色の上に赤色が重なった。足元の"血痕"を見ているうちに、徐々に景色が鮮明になる。濁流のような感情の一端をつかんだ。
 
 目の前に友達が倒れ込んでいた。
 
「あめみや、」
 そう呟くと、つい口角が上がった。右手には血の生ぬるさが蘇った。彼の体温。やはり忘れていた感覚にむず痒くなって、その手を握りしめる。
 あの時。喜びに悲しみに、背徳感に高揚感に。周囲に漂う鉄のにおいすら感じて息苦しくなる。吐き戻しそうになる。それすらも心地良かった。

 彼のひと欠片すらも忘れてしまいたくなかった。しばらく、瞬きもせずに幻覚とも言えるそれを見つめていた。

(……今すぐ追いかけることができたらいいのに。ごめんねって言って、また手を握れたらいいのに。こうやってのうのうと生きてるおれを見て、君はなんて言うんだろうね。)
 幻を眺めた。じっと、そこに居た。手は伸ばさなかった。そんなことに意味はない。
「またね」
 掻き消えそうなほど小さい別れの言葉を呟いた。それまで見ていたものが靄のように溶けて、目の前の花瓶だけが残った。花は生き生きと咲き、花瓶には透明な水が入っている。
「親族の方も来てるんですかね?」
「……あ、えっと、ここまでマメな親戚の話は聞いたことないですけど。丁寧な人も居るもんですね」
 小野が尋ねる。吐き捨てるように返事をして、祈るために目を閉じる。最近ここを訪ねたらしい「誰か」と共に、両手を合わせてしばし祈った。上がった体温が落ち着いていくような気がした。
 立ち上がって振り返る。小野の心配そうな顔は、自分を見るなり微笑みに変わった。
「ふふ、そんな顔初めて見た気がします」
「……そうですか?」
 小野は返事を返さずにただ頷くと、花瓶の方へと近付いた。しばらく花を眺めると、愛おしそうに目を閉じた。
「相沼さんはすごいですよ」
「なんですか、突然」
 小野がゆっくりと目を開ける。
「向き合うことすらできない人も沢山いますから。施設にも、その外にも。あたしだって」
「そんなわけないでしょう」
「決めつけは良くないですよ?なーんて、あたしが言える事じゃないですね」
 小野から目を逸らした。
 彼を覚えておきたいのは、一生死にたい気持ちで居たいからだった。忘れて生きるのも、走馬灯に彼以外のものが映るのも、嫌だったからだ。
「帰りましょう」
 そう言うと、小野はキョトンと首を傾げる。
「もう? せっかく来たのに。もう少し見て回りたいんですけど」
「……物好きですね」
 あきれる自分をものともせず、彼女はいそいそと周囲を見回しはじめた。

 ため息をついて、もう一度花瓶に向き合う。生けられていた花を1本抜き取った。
 しばらく悩んでから、その花を上着のポケットに差し込んだ。この花を生けた奴に向けた、ちょっとしたイタズラだった。