無題

『それでは今日最後の曲をお聞きいただきたいと思います。ぽたぽた権兵衛さんから頂いたリクエスト、小泉拓実さんで「Midnight Yellow」、どうぞ!』
 

 放課後には、スマホでFMラジオを聴くのがお決まりの暇つぶしだった。誰も住んでいない団地の屋上に座りこんで、イヤホンから流れてくるくぐもった音質の歌を聴いていた。

 さしてラジオに興味があるわけではなかった。最近はスマホひとつでどこでも聴けるとあって、動画やSNSとは別の気軽さになんとなく惹かれたのだ。気が付いたら再生アプリをインストールして、手持ち無沙汰なときに聴くようになっていた。

 ジャズ調の音楽が踊るようにリズムを刻んでいる。この番組は地方局で細々と続いているものだった。今座っている屋上からもよく見える、海沿いの白い建物から配信されていた。あの場所からここまで、数秒前に話されたことが自分の耳に送られてくる。何とも言えないその感覚に魅入られているのかもしれなかった。

 この団地に住む人がいれば、いつ、どの瞬間でもこの感覚が味わえるのかもしれない。ここには誰もいないけど。団地内は立ち入り禁止で、わざわざ僕のような悪ガキを見回りに来る人も居ない。用が無ければ誰も立ち入らない、そういう場所。

 『はい、ということで。小泉拓実さんで「Midnight Yellow」でした。いや~早いものですね、今日も終わりの時間です。スタジオから見る空も徐々に夕方に近づいてきていてね、すっかり日が沈むのが早くなりましたよね~。もうすぐ冬も本番ということで…それではまた、来週の3時にお会いしましょう。みなさんの今日が良い一日になりますように! お相手は……』

 音楽が終わって、女性の朗らかな声が締めの決まり文句を読み上げる。丁度番組が終わろうとしたそのあたりで、階段につながるドアが開いた音がした。
 そっとイヤホンを外す。ジャージを着て、レジ袋を持った男子学生が屋上にやってきた。控えめに手を振った。 

 日が落ちる方の空はいち早く強いオレンジ色に染まっていた。もうすぐ1日が暮れて、ささやかなショータイムが始まる。男子学生は僕と会話が出来る程度の場所にゆっくり座り込むと、呟くようにこちらへ話しかけた。

 「…今日は早いな」

 彼もこの屋上の常連だった。確か茅根と呼ばれていたっけ。お互いなんとなく名乗っていないが、一方的に知っていた。

 「今日の課外が休みで。やること無いし、すぐこっち来た」
 「それ、現文の小田? 俺らんとこも3時間目が自習になったって聞いたけど」
 「うん。……って、またサボったでしょ。出席足りてる? 留年にされちゃうよ?」

 問い詰めれば、茅根はばつが悪そうに頭を掻いた。彼はしょっちゅう授業をサボる。合同の身体活動でもよく欠席者として名前を挙げられている。…一応ウチは私立校なのだから、成績には割とシビアなはずなのに。

 「なんとかなるだろ。赤点もそんなに取ってないし、どうせ就職クラスだし」
 「まあ計算してんならいいけどさ。僕が心配する義理もないし」
 「それはそーだ」

 指をピッと伸ばして茅根は言う。僕はごめんごめん、と適当に謝りながら、置かれたレジ袋の中身を覗いた。シャンプーにハンドソープ、単四電池。他にもいくつか。少し遠くのホームセンターかな、と見当を付けた。珍しいことではなかった。

 彼はよくレジ袋を持ったまま屋上にやってくる。あまり深くは聞いてないけれど、よく家の手伝いをしているらしかった。バイトもしているそうだ。校則で禁止ではなかったか、と尋ねれば案外バレねーよ、なんて軽く返されたのを思い出す。素行が悪いのか良いのか、僕にはよく分からない。

 「…それ、何聞いてたんだ?」

 茅根が足元に伏せたままのスマホとイヤホンを指さした。そういえばラジオアプリを切っていない。スマホを持ち上げてロックを開けると、再生画面を茅根の方へ向けた。今は前の番組が終わって、一時間毎のニュースが流れているところだろう。

 「ラジオ。このへんのも聞けるアプリがあって」
 「ふーん、珍し。おもろいの?」
 「おもしろいかって言われると分かんない…けど。人の声聴いてると、気が紛れる」
 「ラジオなんてもうずっと聴いてねえ」

 僕は再生を止めると、側面のボタンを押して画面を暗転させた。空を見上げる。さっきよりもオレンジが広がっていた。

 「……あ、来た」

 茅根が指さした方を見る。山の方からうごめくものが見える。

 それは淡い光を放ちながら、こちらに悠々と近づいてくる。大きなくじらのような(本物の鯨と見比べるとどこか違うので、別物だろうが)半透明の幻が空を泳いでいる。その巨体に追随して、小魚の形をした光の群れが一気に空を覆っていった。一気に空中がアクアリウムになったような錯覚を起こす。夕日に反射した群れが、黄金色に輝きながら泳いでいく。

 僕たちの目当てはいつも、この、摩訶不思議な景色だった。日が暮れるまでの時間にここでだけ見える、海に向かう光の群れ。

 触ろうとしてもつかめないし、この屋上の他からは見ることすらできなかった。ここに来たとして、誰に見えて誰に見えないのかも分からない。僕はこれを勝手に「くもじら」と呼んでいた。

 僕がこのことを知るまで、茅根は毎日1人で眺めていたという。いかにも不良みたいで、あまり風情を大事にするタイプには見えないのだが、並々ならぬこだわりがあるらしかった。彼は僕にここのことを口外しないように言い、元々その気もなかった僕は了承した。それから…お互い口数が多い方ではなかったから、初めのうちは並んで眺めているだけで、ほとんど何も話さなかった。

 

 きらきらと瞬く夕暮れの空を見つめていた。不意に「なあ」と茅根に呼びかけられた。

 「ラジオ、試しに流してみろよ」
 「いいけど…なんで?」
 「興味」

 珍しいな、とは思ったが別に断る理由もなかった。スマホからイヤホンを引き抜いて、もう一度アプリを立ち上げる。再生ボタンを押すと、遅れてスピーカーから人の声が流れ始めた。

 『……れではね、今日もFM宗木から皆さんにクールなロックをお届けしたいと思います。さあ、お便りが届いていますよ! ラジオネーム……」

 ニュースが終わって、ロックチューンを扱う番組が始まったらしい。魚たちが舞う空に深みのある男の声が響いた。

 「確かこれも生放送だから……ほら、あそこから喋ってるよ、たった今。」
 「おお、あそこから?」

 海沿いのラジオ局を指して示す。今もきっと、あの建物から、声を乗せた電波が送られ続けている。

 思ったよりも興味を持ってくれたのか、茅根はラジオを聴きながら建物がある方をじっと見つめた。それから、番組に聞き入るようにしばらく黙り込んだ。

 

 「……なあ」
 「え、今度は何……?」

 ふと呼ばれて身構える。けど、呼びかけた茅根はまた黙り込んでしまった。
 しばらく目を向けてみても、言葉は続かない。スマホのスピーカーは変わらず荒々しい海外のロックを流している。

 「……」
 「えっと」
 「…………」
 「止められると、気になる…」
 「あ、悪い。なんか、なんつーのかな。街は広くて、どこにでも誰か居るんだな…って、意味わかんないかもしれないけど」

 茅根は、眼下の景色をじっと見ていた。

 「ああ、それなら、ちょっとだけ分かるかも」

 こんな小さな景色の先にも、誰かがいて、仕事をして、勉強して、寝る場所があるんだって考えて…考えてると、気が狂いそうになる。

 

 不思議な感覚を共有できたみたいで、嬉しくて、ぽろっと呟いた。それを聞いた茅根が、ハッとしたような顔でこちらを向いた。

 「……そういうことか」
 「え?」
 「山ほど人が居て、俺なんてそのうちの一つでしかなくて……それがショック、だな」
 「ショック…?」

 僕は首を傾げる。それを見た茅根も首を傾げた。

 「え、違う、のか?」
 「……分からない」
 「なんだそれ」

 彼は呆れたみたいに、大きく開いていた目の力を抜いた。それから、またぼうっと景色を眺めはじめた。

 

 「まあ…どっちでもいいんじゃない?」

 そんなこともあるからね。


 くもじらは悠々と空に浮かんで、僕らのずっと上を回遊していた。もし、あの高さから街を見ることができたなら、僕はきっと正気でいられない。

 無駄に長いギターソロを聴きながら、広い街と遠くの海を眺めながら。なんとはなしの不安感を丁寧に撫でてやるみたいに、「くもじら」が去るまでそこに座っていた。