ふわりと煙が眼前に広がった。それがこちらに届くと同時に、線香の香りが漂った。
冷房の風に乗せられて、アパートの小さな和室はあっというまに白檀の香りで満たされる。すりガラスから差し込む光で部屋全体が照らされていた。慣れない場所と空気にこそばゆくなって、正座で痺れた足の居所を直した。
真っ直ぐな白髪をおろした若い女性は、線香をこれまた小さな仏壇にそっと立てる。それから俺の方へ笑顔で振り返った。
「…悪いね翔くん。来てもらっちゃって」
「いいえ。というか、俺が来て良かったんですか?」
「私が呼んだんだからいいの。お父さんと蛍来の、ふたりぶんの七回忌なのにね、どうせだーれも来ないから」
朗らかにおれを迎えた女性は守谷さんといった。守谷は母方の旧姓で、親が離婚する前は父方である雨宮の姓を名乗っていたそうだ。
とどのつまり、彼女は雨宮蛍来の姉だった。ゆるやかな振る舞いと白い髪は一瞥するだけでも彼によく似ていたけれど、彼よりもずっとしゃんとした安心感があった。大きな銀行勤めと聞いたけど、そのせいだろうか。
おりんを叩くと、コーンと小気味よい音が響く。線香の香りの中で手を合わせて目を瞑る。
彼に向けて手を合わせたのは初めてではない。最初は二学期の学校で、次は彼の墓地。何度か路地裏まで出向いたこともある。でもそれは俺が一方的にしていたことで、実の親族から直接招かれるのはどこか場違いに思えてむず痒かった。
ぱち、と目を開ける。線香の先が先程よりも白くなっている。壇の周りにはほとんど何も供えられていなかった。
「お母さんとか、親戚とかは? いらっしゃらないんすか」
「うん。お母さんはお父さんのことをあまり考えたくないんだって。雨宮さんちともなんか気まずくて、連絡取れそうにないし」
「複雑っすね」
「まあ、こんな家族と関わりたい人なんていないから。この仏壇もね、他に誰も置きたがらないからここにあるの。私だってどう整理すればいいか分からないのにね……。あ、このお供えありがとうね」
守谷さんはぽつぽつと話しながら、俺が差し入れたフルーツゼリーを殺風景だった壇の傍に置いた。蜜柑が浮かぶそれは相沼が選んだものだ。彼女には伝えていないが。
七回忌と言いつつも、坊さんを呼ぶとか、ご馳走を作るとか、そういう特別なことをしようとしているわけではないようだった。特別なことをしないから、せめてと思って俺を呼んだのかもしれない。
彼女とは数年前に機会があって、その時に話したきりだった。覚えていてもらえたのかと思うとなんだか嬉しかった。
「……そうだ、翔くんは今どうしてるの?」
「俺は介護士みたいな感じっす」
「へぇ、らしいというかなんというか。私みたいに一人暮らし?」
「いや、二人暮らしで」
「それは、寂しくなくていいねえ」
守谷さんは嫌味のかけらもない声色でさらさらと話す。暑かったのだろうか、近くにあったエアコンのリモコンをおもむろに取ると数度温度を下げたのが見えた。
つい口をついて出てしまったが、この人に同居人の話をするのは避けたかった。どう話を続ければいいか悩んで返事を考えていると、それを察してか彼女はまたこちらを向いた。
「一緒に住んでるの、相沼くんでしょう?」
「……し、知ってたんですか?」
「噂だけ。ごめんね、意外とそういう話も入ってくるの」
ふふ、と彼女は笑う。余計に何を言えばいいのか分からなくなった俺はまた正座の形を直した。
後ろめたさからそっと目を逸らす。自分の弟を殺した相手を、目の前の人間が匿って生かしているのだ。不快だと言われてもしょうがない。
「別に責めたりなんてしないよ。ほらほら、もっと力抜いてね」
「でも、嫌じゃないすか」
「ううん」
しばらく考え込むような素振りを見せる。えっとね、と口篭りながら、彼女は目を細めた。
「根っこの原因はこっちにあるでしょう。死んだ人にどうこう言えないからって相沼くんだけ悪者扱いするのも気が引ける、っていうか」
「そういうものすか」
「私はね。お母さんは逆にすっごく嫌がってる。……変な話かもしれないけど、私、あの子に直接話を聞いてみたいとすら思うんだ」
「向こうが良ければ、だけど」と付け足して、守谷さんはちらりと仏壇の方を見た。なんとなくその目線を追いかけた。
『雨宮の姉と会う』と話した時の、複雑そうな相沼の顔を思い出す。炭になった線香の先端がポロっと落ちたのが見えた。
「……あいつは多分来ないっすよ。自分が会うのは許されないからって」
「ふぅん…それなら会ってくれるまで私はあの子を許さない。何年経っても恨み続けてあげる。私のかわいいかわいい弟を、よくもって」
手触りがいい絹のような声色。目線を戻すと、彼女の顔からはずっと浮かんでいた笑顔が消えていた。怒っているのか、悲しんでいるのか、俺にはその意味がうまく掬いとれなかった。
「伝えておきますか」
「ふふ。……じゃあ、よろしくお願いします」
守谷さんは1度深呼吸をするともう一度笑顔をたたえた。それから何かを思い出したようにその場をゆっくりと立ち上がる。丁寧な所作でふすまを開けた。
「……暑くて喉乾いたでしょ、お茶持ってくるから待っててね」
パタパタという音と共に守谷さんがふすまの向こうに消える。少々部屋が寒かったので、俺は気付かれないうちにエアコンのリモコンに手を伸ばして、温度を1度上げた。鳥肌が立った自分の腕をさすりながら静かに仏壇の方を眺める。
ふと、隅に小さな写真が置かれていることに気が付いた。覗き見るようで気が引けたものの、小さな壇には遺影すらも無かったのでこっそりそれに近付いた。
少し色が褪せているそれは、入学式の写真だった。中心にはあどけなさの残る守谷さんが中学の制服姿で立っている。両脇には記憶よりもずっと小さい友人と、笑顔で佇むふたりの大人が写っていた。
無意識にため息をついていた。次にここに来ることがあればお供えと一緒に美味しいケーキでも買ってこようか。あとで好みを聞いてみようと考えながら、近付く足音に合わせて俺は写真から離れた。