ワダチとセンパイ

 ワダチ、と呼ばれて洗っていたワイングラスから目を離した。バーカウンターの向こう側で、へべれけの男が口角を上げてこちらを見つめている。

 これは今にもダル絡みを始める気だろうな、と考えていつも通り苦笑いを返してみる。濡れたグラスを持ち上げて、タオルで拭いて棚に戻した。

 「なんだよ~、そのめんどくさそうな顔は。たまには労ってくれてもいいでしょ」

 「はいはい、お疲れ様です……センパイ、なんか酔うの早くないですか? 一杯目ですよね、それ」

 ツンと鼻を刺すアルコールの匂い。確か今日の注文は安いウイスキーのストレートだったか。閑散としたカウンターに居座っているセンパイは、それだけでも良い具合に出来上がってしまっていた。あーあ、困ったな。しばらくはマスターが外してるのに。

 「ン~、ちゃんと仕事した日は強い酒に限る。ワダチくんもたまには酔ってみたほうが良いって。奢るぞ?」

 「やめてくださ~い。未成年なので」

 「都合のいい時だけガキ面するなよなぁ」

 「かわいくねえの」と言いながらセンパイがウイスキーをもう一口啜る。そのまま浸るモードに入ったのを横目に、もう一つ残っていた前客のワイングラスを手に取った。流れる水とスポンジでそれを洗う。

 酒の良さはよく知らない。一度か二度口に含んでみたことはあっても、変な匂いと味にしか感じなかった。センパイこそ、そういう時には決まって「ワダチくんはお子様なんですねぇ」と馬鹿にしてくるけど。

 駒鳥区の地域密着型互助団体、『Happy Robins』の交流場所として表向きに設けられたこの店で、ろくに中身のない会話をしてくるのは常連と化しているこのセンパイくらいだった。

 地域だの互助だの大層な看板を掲げておいて、実態はチンピラの集まりに序列ができたようなもの。グレーどころかブラックまみれの仕事の斡旋に、漏れた機密の話、死んだ役員の話……。このバーでされるのはそんなものばかりだった。その点、自分と同じ下っ端であるセンパイの相手は変に気を張らなくていいぶん楽なのだけど。

 しばらくの間、バーには水音だけが響いていた。洗剤を流してタオルで水を拭きとったあたりで、やけに静かになったセンパイに目を向ける。

 「……あの。寝るのだけはやめてくださいよ? ああもう……、ほら」

 船を漕ぎ始めている頭に手刀を落とした。新しいグラスに水を入れると、わざと音を立ててカウンターに置く。音で若干目が覚めたらしい飲んだくれはスローモーションで頭を持ち上げた。その顔はやたらとしょぼくれていて、つい「うわ」と声が漏れた。いつも、酒を飲んだらウザったいくらい笑ってるのに。

 「ン、ああ。なあ、ワダチさぁ、俺ってなんでずっとこんなことしてんのかなァ」

 「なんですか。酒につぶれて寝てることですか?」

 「そうじゃなくて……ああ、お前はいいよね。今じゃ悩みなんてなさそうでさあ」

 大きなため息の音。空になったウイスキーのグラスを持ったまま、センパイは要領の得ないことを言って机に突っ伏してしまう。「危ないですよ」と声を掛けてから、床に落ちる前にグラスを回収した。

 「珍し。仕事ってアレですか、誰か殺してきたんですか?」

 「んーん、今日は違う、殺したやつを片づける方だよ。港にポイするやつ」

 「ああ、そっちですね」

 そっけなく返事をする。
 スキルを持つ会員の元には、暗殺や事後処理などの依頼が舞い込むことも珍しくはない。むしろ、揉め事ばかりの駒鳥区ではそういう忌み嫌われる仕事には事欠かない。
 センパイも自分も、そのスキルを持つ上司の下で組織に馴染んだクチだ。他大勢のために、疑問を持つことも躊躇うことも許されない。そんな立場が当たり前になっていた。

 「……水に落ちる音がした時さ、今日は急にゾッとしたんだよ。こんなに楽に人ひとり消せる、変えられるんだなァって。簡単に他人の命で金貰って、あー俺何してんだろって」

 「で、酒で忘れようってコトですか」

 これは本当に、芯までべろべろに酔ってるな。机に置かれた手に水のグラスを押し付ける。センパイはそれをおぼつかない手つきで掴むと、頭を上げてぐいっと飲み干した。

 「センパイにそんな話をされるの、珍しくて面白いですね」

 「……かわいくないな~、おまえは」

 「だって、オレたちが何人消したって、今更なんにも変わんないじゃないですか」

 酒で忘れたいのならもう一杯ストレートを出してやれば良いだろう。まだ手元に残っている、さっき注いだウイスキーボトルを手に取った。

 「お、気い利くじゃん。もう一杯頼むわ。」

 「はあい、かしこまりました」

 ボトルを開けて酒を注ぐ。黄金色に光るそれをカウンターに差し出した。センパイは顔を上げたオレと目が合うなり、にまりと笑ってさっき飲み干した水のグラスを置く。

 「な、ワダチ。もしもこの街が、というかこの街の社会が突然無くなったらどうする?」

 「組織ごと、無くなったらって話ですか?」

 「そうそう」

 お得意の与太話だろうか。問われても思いつかないし、考えて不安になることもない。この街はオレが生まれる前からあって、今の今までずっと、同じように続いてきた。

 「さあ? 適当なところに似たバーでも作りましょうか。マスターも連れて」

 「ははは! いいんじゃないか? ワダチもマスターも、ココにいるのがしっくり来るよ」

 酔っ払いは景気よく笑うと、ウイスキーをあおる。
 我ながらバカバカしい答えだ。蒸発したアルコールで酔ったかな。知らないけど。
 団体がなくなったらバーに居続ける理由もなくなるのだ。それからどうするのかは何も思いつかなかったけれど、考える必要も感じない。もしもの話だし。

 「センパイ、それ飲み終わった? 動けなくなる前に帰ってくださいよ〜、オレじゃ酔っ払いは運べないんで」

 「ン。分かった、分かった。ふあぁ……じゃ、マスターにもよろしく」

 眠そうに席を立つと、財布から数枚の千円札を出してカウンターに置いていく。そのまま店の出入口に手を掛けようとした時、「あァ、そうだ」と呟いてこちらへ振り返った。

 「俺が言えたことじゃあないけどな……ワダチ、もっと違う生き方の一つや二つ、考えといたほうがいいよ」

 「えぇ、どうしてです?」

 「若者が成長したときに、まだこの場所があるとは限らんだろ」

 センパイは軽やかにウインクを決めると、ふらつきながらも軽く手を振って出ていった。なにあれ、先輩風? 口から自然にため息が漏れる。
 どうせ酔っ払いの戯言だ、気にしなくていい。カウンターに残されたグラスを取って、中に残った数滴を水道水で勢いよく洗い流した。