じょうろとココア

 同居人が外を眺めていた。まだ少し斜めを向いている太陽が彼の顔を照らしていた。
 クマができている険しい目元を見て、うまく眠れていないんだと分かった。ココアでも入れてやるか、と思いついて静かに椅子から立ちあがる。大窓の外では色付いた落ち葉が舞っていた。
 
 かつての殺人犯と寝食を共にし始めて数ヶ月が経った。とはいえ「血気盛ん」の反対語みたいな奴だ。よっぽどの事が無ければ同じことはしない。それを確信しているから、何かと理由をつけては彼をここに住まわせている。何かをしてもらおうというわけではない。ただ、住まわせている。
 戸棚からココアの粉を取り出した。賞味期限が切れていないのを確認すると、いくらかすくってコップの中に移し替える。その上から牛乳を注いで、少し混ぜたあとに電子レンジへそっと置いた。ピ、ピ、とボタンを何度か押せば、箱の中がオレンジ色に光り出した。
 
「何作ってんの」
 
 窓を見ていたはずの顔はいつの間にかこちらを向いていた。カーテンの傍で気怠げに立っているあいつは、周りに植えてある観葉植物と相まってやけに様になっている。風を入れたらそのまま飛んでいきそうな不気味さを伴って。
 俺は軽く笑うだけで質問には答えなかった。答える必要もないか、となんとなく思ったから。しばらくすると諦めたのか、また窓の方に目線を向けたのが見えた。
 
「外、そんなに気になるんすか?」
「...暇だったから見てただけ」
「そんなもんすか」

 また外で葉っぱが舞っている。本心か建前かも分からないような返事に、同じくらいの適当さで相槌を打った。
 ここ半月くらいの会話はほとんどがこんな具合だった。続かないキャッチボール。それが当たり障りなく過ごすのに1番ちょうど良かったから。互いを不要に傷つけずに済んだから。
 ピロリロリ、とレンジが鳴った。中身が吹き出していないことを確認してから、扉を開けて温まったココアを取り出す。それを彼の傍のテーブルにそっと置いた。
 
「ホラ、疲れてるんでしょう? 気休め程度に飲んどいてください」
「...ココア? ああ、さっきの」

 別に欲しいとか言ってないんだけど、と呟いたのが聞こえた。それを無視すると、あいつは観念したかのようにおずおずと座って湯気の経つココアを啜りはじめる。いくら文句を垂らしたところでコップは冷めていくだけだ。最近になって、ようやくそれを理解してくれたらしい。
 怪訝な顔をされるのは慣れていた。初めて会った時も、再会した時も、ここに住まないかと提案した時も。
 
「なんでそういうの、分かんの。君の特殊能力?」
「俺が分かるっつーよりも...あんたの顔に書いてありますよ。モロバレです、思ってるよりずっと」

 ほら。今もその顔をしている。「それ」に右手の人差し指を向けた。
 この顔が不機嫌ではなく、困惑や気疲れだと気付くまで時間がかかった。しかしそれが分かっただけでも話しかけるのがずいぶん楽になった気がした。彼はどうか分からないが、俺はこの生活を意外と楽しめていた。

「どうせまた布団の中でうじうじ考えてたとか、そういうのっすよね」
「……」

 あ、無視された。
 続かないキャッチボールだ。また受け取ってくれそうなときに、新しい球を投げてみればいい。
 俺は植物たちに水をやるため、何も言わずにその場から離れた。キイ、と大窓を開ける。外は葉っぱが舞っている。風の音が先ほどよりも大きくなった。
 
 人を求めて生きてきた。
 常に誰かと接続していないと生きている心地がしない。誰かのために何かしていないと屍のような感覚になる。仕事場に行けばいくらでも人と関われるけれど、家に沈黙がくすぶり続けているのが少しだけ嫌だった。
 だから、誰であれ話し相手が住み着いてくれるのは好都合だ。しかもあいつが生きていることが毎朝確認できるならそれほど満足なことはない。わざわざ連絡をよこさなくても、俺がここに繋いでいればいい。もう二度と『気が付いたら死んでいた』なんて御免だ。今度こそ、俺が。
 ベランダからじょうろを取って、それに水を注ぎ入れた。増していく重みに合わせて手首に力を入れていく。
 
 ……あのココアは、ちっぽけな代償のようなものだった。あいつの弱みに付け込んでいることは分かっている。それでも今の形にしたことに後悔はしていなかった。
 ここまで介入してしまえばもう退くこともできない。下手に退いてあいつが死んでしまったら、それこそ俺が殺したようなものだ。そんな未来に比べれば、知人を飼い囲んでいるような気味の悪さは軽いものだった。

 水を止めた。重たくなったじょうろを持ってリビングに戻った。
 ココアを飲み終えたあいつは、俯いたまま底に残ったココアの粉を見つめていた。尋ねることはしなかった。