鈴森と相沼

「あんた、そんなにここが好きなんすか?」

 鈴森が心底分からない、とでも言うような顔で尋ねた。
 目の前に広がる大きな水たまりから、うなるように波の音が鳴る。ここで育った人間にとっては当たり前の音。景色。空に浮かぶ月が水面に反射して、周囲を淡く照らしていた。

「別に」

 一言、言葉を返した。気の利いた言葉を考えるのが面倒だった。

「でも、帰りは絶対ここに寄るじゃないですか」
「……関係ないでしょ」
「えっ、ありますけど。晩飯の時間が遅れるんすよ」

 鈴森が横で不満をこぼす。そういえばそうかと思い直した。反省はしなかった。
 鈴森のことは苦手だ。嫌い、とまで言ってやるのはなんだか憚られる。苦手だ。

「それは君が、やたら凝ったものを作ろうとするから」
「カツカツなんだって、食費……。あ、でも遠慮せず食べてくださいね。断食とかそういう死に方は所望してないって信じてますけど」

 握られていた右手に力が入る。そんなことしなくても、逃げやしないのに。「痛いんだけど」と指摘した。少しだけ力が抜けた。

 この人間のことがよく分からない。
 いや、きっと単純明快で、放つ言葉にも嘘はない。だからこそ分からなかった。
 『あんたにまで死んでほしくない』。それだけの理由で動くことが出来てしまう変な奴。困り果てた子供を見るような目で世話を焼く生意気な奴。だから苦手なんだ、とため息をついた。

「ほら、もう日も落ち切っちゃったじゃないですか。早く帰るっすよ~」

 鈴森は握った手を引いて、おれを引きずるように道路を歩いていく。
 割と車通りは多いのに、手を繋いで歩くなんて見苦しいことこの上ないだろう。海から少し離れたあたりで掴まれていた手をパタパタと動かした。一瞬足が止まって、手がほどかれた。

「……そんな不満そうにしなくても」
「アレは海に居るときだけ、なんでしょ? 別に逃げないし。普通にやめてほしいんだけど」
「前例あるんで無理っす。あんたは何しでかすか分かんないんすから」

 あ、なんか一言余計じゃないか。一応お前より年上なんだけどな。喉元まで出かかった言葉を飲み込んで、無言のまま横を同じテンポで歩いた。口答えをするほどの元気が無かった。
 歩いているうち、横を通っていく車のエンジン音だけが大きく響いていた。道沿いにあるドラックストアの光がこちらを少し明るく照らした。何を思ったのか、鈴森が一瞬後ろの海を振り返った。それを見ていた。

 ……今頃一人だったら、おれはどうしていただろう。このトンチキな知人が居なかったら、静まり返った借家に1人でいたら。
 答えは一つしか出てこなかった。何百回と考えたことだったから、今更何ということもない。むしろそっちの方が喜ばしいくらいなんだけどな。こいつはどこまでおれの呪いになるんだと、恨めしく思った。

 「生計が立てられるようになるまでこっちのアパートに住まないか」なんて、気が狂ったとしか思えない提案をしてきたのは、もう何か月前のことだっただろうか。
 断られることを見越して、彼は大量の理由を用意してやってきた。家賃が安く済むとか、朝夕の飯付きだとか、テレビもラジオもあるとか。挙句の果てに日当たり良好だとか、仲介業者みたいなことまで言い出して。
 おれが子供みたいなのは否定しきれない。一般的な生活能力もない。身寄りがないせいで困り果てていたのも事実で、結局その提案は都合がよくて。頷いてしまったのだ。

 鈴森が前を向きなおす。こちらの視線に気が付いて、はは、と微かに笑った。

「どうしたの、急に」
「ん、いや……昔、あそこで遊んだっすよね。ほら、カメラで写真も撮ったりして」
「……そんなこともあったかもね」

 鈴森が海の方を指さした。くら、と視界が揺れた気がした。少し深く息を吸った。
 満面の笑みとピースサインを掲げた、真白な子供がまぶたに映った。

「あの写真…まあデータっすけど、多分まだ実家に残ってますよ」

 あれから見返せてないですけど、と付け足すと、鈴森はいつの間にか止まっていた足をまた前に向けた。数秒遅れて、それについていった。

「今日は肉じゃがなんで。煮込まないといけないのでさっさと帰りましょ」
「ああ、そう……」

 殆どため息みたいな返事を返して、少し大きくなった歩幅に何とかついていく。また横を自動車が通り過ぎていった。一瞬目の前が明るくなって、元に戻った。

 そうか。きっと、おれも呪いだ。君にここまでさせてしまうような呪いだ。
 おれを手元に置いて、逃げないように大事に抱えて。今度こそ守るんだって叫びながら、もう取り戻せないものに向かって執着し続けている。そんな風に見える。
 かわいそうだな。おれのせいなんだけど。あと、やっぱり苦手だ。

 歩いていくと、ちょうど目の前で信号が赤に変わった。青になるまでの間、互いに口を開かなかった。