(R-15)無題

 やけに印象に残っている映画がある。数年前に大ヒットしたっていう、あまあまな恋愛映画。
 ねえちゃんがテレビで放送されていたそれを見て、すごく楽しそうにしていたのを覚えてる。懸命に生きる男女が出会って、何度も試練に見舞われて、だけど最後は結ばれて幸せに幕を閉じるのだ。途中でちょっとヒヤヒヤするけど、見終わった後には満ち足りた幸福感だけが残る。こんな物語が世界には満ちてるのかなって、エンドロールを眺めながらぼんやりと思ってた。
 ねえちゃんと母さんが居なくなって、父さんが力任せに僕を殴るようになって。テレビが重い静寂を埋める以外の役割を持たなくなってからは、ドラマや映画を全編通して見ることも無くなった。だから、特別好きでもなかったその映画のことを鮮明に覚えていた。
 
 今は物語の真ん中なのかもしれない。どれだけ苦しくたって、生きてればある日突然幸せになれるかもしれない。
 それに、良い人は報われるんだって友達も教科書も言ってたもん。「因果応報」ってね。信じてた。自分にも身の回りの「良い人」たちにも、いつかそれに見合うような、願いの叶う日が来るんだって。幸せなエンドロールが見れるんだって。


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 車のエンジン音とポップな広告音楽が遠くの方で響いている。普段なら気にならない、聞きなれた雑音が頭の中でこだましている。
 日が真上に登っていた。熱と一緒に色んな水分が肌にまとわりついてうっとうしい。力を抜いた拍子に、握っていたナイフが手中から滑り落ちた。
 手がべちゃべちゃだ。赤い。ぬめつきと生暖かさが気持ち悪い。それを見ても吐く気すら起きないくらい、僕の頭は上手く動かなかった。何をしてしまったのかを理解できずにいた。
 足元には自分よりずっと大きい人、僕の父さんが転がっている。あんなに恐ろしかった父さんがピクリとも動かない。苦しみの形で固まった顔を見るとすこし心が沸き立った。
 1ヶ月ぶりの、偶然の対面だ。死んでるんだろうか。動脈を狙ったけれど、傍目じゃうまく判断できない。死んでればいいな。
 
 力の入らない足に鞭を打ち、フラフラとその場から立ち上がった。上手くものを考えられなくて、身体に言われるがまま息を整えていた。少しずつ頭と体に酸素が回る。頭を焼く強い日差しと、鼻につく不快な鉄臭さが僕をどこかで繋ぎ止めていた。 
 人を…親を殺しても、僕は映画の2人みたいに幸せな主役になれるかな。体が勝手に動いたんだ、本当はここまでするつもりじゃなかったんだ……って言ったら、誰かに怖かったねって撫でて、許してもらえるかな。 
 ううん、僕も父さんと同じで、気に入らないものは壊さないと気が済まなかったんだ。体は勝手に動いたんじゃない。僕が「殺せればいいのに」って思ってたから、その通りに動いただけ。同じもの。悪い人。慰めてなんてもらえない。
 
 涙でぼやけた視界を拭って、落としたナイフを拾い上げた。
 証拠品は残しちゃいけない。隠れる時の基本だって真紘が言っていた。持ち帰らないとね。
 
 ……そうか、真紘なら。あのひとなら、助けてって言えば助けてくれちゃうかもしれないな。どんなに悪い子になったって、僕だからって理由で守ってくれるかもしれない。
 僕が真紘に「生きてて欲しい」なんてわがままを言ったせいだけど。あの人が生きてるのは僕のため。だから、自分の気持ちを二の次にして僕のために動いてしまう。何度かそんな場面を見てしまったことがある。
 でも、だからこそ、今の僕のために苦しみ続けてほしくないよ。毎晩毎晩魘されて、今だって死にたくて堪らないはずだ。きっとそうだよね? 
 
 多分、僕が死ねばいいんだ。そしたら世界からは悪い人が1人消えるし、真紘を縛りつける存在もいなくなる。血まみれの舞台はエンドロールに似合わないかもしれないけど、彼の願いはそれで叶う。
 朦朧とする頭でそんなことを何とか考えて、ベタついたナイフを握り直した。刃の向きを一瞥してから首へ近づけた。


 ……怖い。

 腕の力がふっと消えると同時に、冷や汗がぶわりと吹き出す。腰が抜けてその場に座り込んだ。
 喉に何かを詰められたみたいだ。苦しい。下に落ちた手が見たことないくらい震えていた。
 痛いのは、怖い。
 いい人が幸せになるように、苦しませたら苦しまないと、死なせたなら、死なないといけないのに。「因果応報」なのに。急に自分の体が他人の物みたいに動かなくなった。
 
 呆然と座り込む。しばらくして、微かに話し声が聞こえた気がして目線を上げる。
 遠くの方で遠巻きに見てる大人たちが居た。今まで気が付かなかったけど、どうやらどこかに電話してるようだ。こちらを指さしている。頭から水を掛けられたみたいに、胸がぎゅうとした。怒られる。こわい。逃げないと。
 距離があるから、もし追いかけられても頑張れば逃げ切れるかもしれない。震える足を奮い立たせて、なんとか立ち上がると死体を背に走り出した。呼び止めるような声が聞こえたけど、少しも気にしなかった。
 

 車のエンジン音とポップな広告音楽が遠くの方で響いている。緊急車両のサイレンが喧騒の中に混じり始めた。
 庭のように身知った路地のずっと奥のほう。角を曲がればそこが僕たちの居場所。
 涙でぼやけた視界の中で、いつも通り路地に座り込んでいた人影を捉えた。無性に嬉しくて、回らない舌で名前を呼ぶ。笑顔でこちらへ振り向いた彼は目を見開いて固まった。それから、すごく悲しそうな顔をした。
 
 ねぇ、真紘。僕を殺してほしいよ。
 無茶を言ってごめんね。グルグルでごちゃごちゃで、さっぱり上手く言えないけど……。多分、それでハッピーエンドなんだ。