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惚気モーニング|ひがはた
コーヒーショップ「SUN Flavor」は、早朝から開店している珍しいカフェだ。
店中にコーヒーの香りが広がっている。手元のモカから湯気が飛んでは消えていく。
俺はモーニングのサラダをつまみながらノートパソコンを開いた。講義まではまだまだ時間がある。
カフェに通いはじめて、驚くほど朝型の人間になっていた…。
ラジカセのバラードを聴きながら今日のレジュメにハイライトを入れていく。つい口ずさみそうになって我慢した。いつも同じプレイリストが流れているせいで、歌詞だけは覚えてしまった。
たまには変えて欲しいのに、香央さんは「CDを焼き直すのが面倒だから」と言い張って同じ曲ばかり流している。サブスクを使えばいいのに、と何度も思っている。
コーヒーを持ち上げて啜ろうとする。まだちょっと熱かったのでやめた。
5秒くらい水面を眺めてからカップを置いた。コトンと磁器の音がした。
液体のゆらめきが好き。
コーヒーフレッシュがとろとろと沈んでいく様子に目が離せなくなることもある。
モノの境目で起きている小さな物質のやり取りを見つめているのが好きだ。コーヒーの揺れ方とか、ラジカセが放つ空気の波も。
店の裏からぱたぱたと足音が聞こえた。焼けた卵のいい匂いがする。
香央さんが他の人の注文を作り終えたんだろう。ええと、確か。エッグサンドセットだ。
「…お待たせしました。エッグサンドセットです」
皿が置かれる音がする。「ごゆっくりどうぞ」と笑み交じりの声が聞こえた。レジュメそっちのけで、入口のガラスに反射する店主を眺める。
ガラス越しの香央さんは向こうの客に会釈して…何故か、こちらに向かってきた。
「おーい、ナギ」
「……はい?」
香央さんが俺の脇に立つ。
分かりやすくあきれ顔をしていた。俺のパソコンをぴっ、と指でさされる。
「勉強、ボケーっとしてても進まないぞ」
「してないですよ、考えてます」
「嘘つけ。外見てたもん」
「頑張って考えてたんです。えっと、世界の真理を」
「嘘に嘘を重ねるなよ」
香央さんが言う。いたずらっぽく細められた目が綺麗だと思う。
……というか香央さんだって俺のこと見てるじゃないか。どの口が言ってるんだろう。
年上だからって、自分ばかり見抜いてると思わないで欲しい。
え~っと、なんというか、
「今日もかわいいですね」
頭に手刀が落ちてきた。
「痛っ…、え? なんですか?」
「お前は、なんでコーヒーを飲みに来てるんだよ」
「……勉強です」
「はい」
頭をさすりながら答える。香央さんは満足したのか、カウンターの内側に入って俺の向かいに腕をついた。暇なのかも。
手元のモカを一口飲んだ。少し熱いが、飲めないほどではなくなってきた。
バラードは本日3回目のループに入って、ちょっとだけ軽やかな曲が流れ始めた。
「……ナギ、今日は何してんの?」
「ベクトル解析です」
「矢印描いてA,Bってやるやつだ」
「ん~~、まあ、大体合ってますけど」
しかたなくレジュメに視線を戻す。よく使いそうな公式にハイライトをつける。トラックパットを押し込む。小気味良い音が鳴る。
香央さんはしばらく真面目な顔で俺を眺めていた。が、数分すると飽きたらしい。ふあぁ、と声を出してあくびをしはじめた。
大口を開けているので中が見える。おいしそう。舐めたら怒られるだろうか。
……あれ? また気が逸れてた。
俺と香央さんは付き合っている。
告白したのは俺からだし、香央さんがどう思っているかは分からない。けど、付き合うことは了承してくれたし、閉店後なら手も繋いでくれるし、キ……口づけも、一度だけしてくれたから、関係は良好だと思う。多分……。
あ、香央さん、襟にホコリが付いてる。唇もよく見たら荒れてる。かわいいな。
「ナギ?」
「ぇあ。…はい。」
「オレばっか見てても進まないぞ」
「はい」
ヤバ。また呆れられそう。でも集中できないものはできないんだから仕方ないだろ。もはや飽きた音楽すらも似合ってるこの人をどうにかしてほしい。
香央さんは手が動きそうにない俺を眺めながら、ンーと唸っている。俺はダメ元で手元のコーヒーを飲んだ。良い温度になってきた。
カップを口から離したところで、ふと、香央さんの手が伸びてきた。
「え?」
俺の前髪が掻き揚げられる。手がホカホカだな…じゃなくて。
「かおさん?」
「……」
香央さんが近づいてくる。うっすら苦い匂いがする。
視界が塞がれた。おでこに乾いた、でも柔らかいものが当たった。
……?
これは……?
「…ほら、頑張れよ」
「うぁ」
「なんだよ、特大サービスだろ~が」
「ぇ、あ、お客さんいる…」
恐る恐るエッグサンドの席に目をやる。……居ない?
「お手洗い行ってる」
「うぉ……」
「要らなかったか? ナギさ、ずっとおれの口見てんだもん」
香央さんはしたり顔で笑っている。信じられずに額をさすった。額が、香央さんの掌よりも熱くなっている……
「勉強どころじゃ、ない……」
「なんでだよ?」
「香央さんのせいです!」